訪問記

2014年11月26日 18:43

齋藤 煌華(昭雄)氏 伝統派 日本画家

若王子神社を後にして、その日の午後3時に南画家、()能村(のうむら)直人(ちょくにゅう)の蔵を拠点にする若王子倶楽部左右の応接室で近くに画房を構える齋藤煌華氏にお目にかかりました。名刺を見ますと、肩書きに「伝統派 日本画家」とありました。

「今では伝統派を守っているのは知っている限り私ぐらいになりました。」と。

 

齋藤煌華氏の画家になるまでの小史を簡単に振り返ってもらいました。

―昭和5年、京都府木津町に生まれた。父親が旧満州国の満鉄の社員だったため、一家は牡丹江市に在住。そこで青少年時代を送った。戦時下の当時、学生は軍需工場に駆り出され多難な学生生活を終戦まで余儀なくされたのである。

ソ連の突然参戦や終戦時の最悪の治安情勢の中、昭和21年家族と共に命からがら日本へ引き揚げてきた。この時母と末弟を失っていた。日本へ帰ってきたものの、仙台の父の実家は戦渦を受けていたので、一家は亡き母の縁戚を頼って京都へ移り住んだのがきっかけで今日に至っている。

当時の日本は終戦による激動の時代で、食糧危機、インフレ経済、就職難など社会情勢は、今日では考えられない混沌状態にあった。しかし、昭和20年,30年代にかけて次第に日本も復興が進み、まだまだ生活苦はあっても世の中は落ち着いてきた。

その中で私は家族を支えながら美術関係(木版画元)の職につき、そこで伝統絵画を継承する戦前から京都画壇にいた一部画家の知己を得ることができた。そして円山応挙(近世京都画壇の巨匠)七代目の円山応祥師、及び南画家の高橋来潮師に長年師事して伝統画法を研鑽した。

当時のこれらの日本画家は伝統を継承する京都最後の画家となり、以後伝統画各派は衰退、断絶していくことになる。高橋来潮は南画家として若王子の田能村直外とも親しく交流していた仲である。

齋藤氏自身は戦後の新しい価値観のもと、伝統ある日本画派が京都から衰退していくのを見るに忍びない気持が強くなって、昭和40年代伝統派画家として敢えて独立した。

「当時日本の伝統画は国内では購入する余裕も要望もなかったので、主に海外向けの創作活動になりました」と言う。

 

 昭和46年~サンフランシスコ、シアトル等で個展10回、サンディエゴ日本名誉

      総領事館、ホテル・フォーシーズンズ(シアトル)に納画

 昭和58年 中国西城、敦煌を巡礼、蘭州西北師範大学美術部などで

      中国古典を研究

 昭和61年 名古屋、浜松など国内で個展始める

 昭和62年 黒崎そごう画廊で個展、米国タトル社刊英文句集

     (イーデース・シーファート著)に水墨画挿絵

 昭和63年~各地画廊で毎年個展、金沢ひろた画廊で個展5回、奈良法教寺に

      仏教地獄図納画

 平成13年末 福岡県田川市浄土真宗長福寺新本堂に障壁画、天井画を奉画 

      (親鸞上人一代、天界、花鳥画)他に涅槃図、六道輪廻図、

      インド仏跡図、釈迦一代図

伝統画法によるやまと絵の源氏物語、平家物語など日本古典のもの、仏教絵画など長年制作。現在84才で南画に戻り、漢詩、水墨山水の世界に浸っている。

 

ここから日本伝統画についてあらまし説明していただいた。

―日本画は7世紀頃中国から導入された唐絵(からえ)と呼ばれていた技法が始まりで、強く中国の影響を受けたものだったが、やがて平安時代後期頃から次第に日本の事物を描く日本独自の画法に進化して「やまと絵」と呼ばれるようになった。

これらの絵は殆ど現存しておらず、唯一源氏物語絵巻が最古のやまと絵として世界的にも高く評価されている。平安から鎌倉時代になってやまと絵風の多彩な絵巻が数多く描かれ、一部少数ながら今日まで現存している。室町時代には今日の禅寺、僧侶達と中国の交流が深まり、中国の水墨絵、宗教画が入って来て日本に大きな影響を与えた。

この時代の相国寺禅僧雪舟の水墨山水画は特に有名であり、狩野正信、元信は狩野派を創立し、同派はその後江戸時代末期まで武家幕府の御用絵師として水墨から濃彩な絵を数限りなく制作した。

その後幾世期にも亘る栄枯盛衰を繰り返しながら江戸時代に至った京都は、平穏な時代の到来によって経済も発展し庶民もやっと豊かに日常生活を楽しめるようになった。

そして従来の武家貴族文化の中では見られなかった自由な発想に基づいた庶民文化が生まれ、多くの個性的な画家、芸術家が続出したのであった。

絵画の世界では、マンネリ化した狩野派の絵よりははるかに近代感覚に満ちた写実主義の画法が円山応挙によって創案され、円山、四条派の祖となり、また洗練された装飾画法の宗達、光琳は琳派の祖に、更に庶民風俗をテーマにした浮世絵は江戸文化の象徴であった。

その中で17世紀後半、つまり江戸時代初期の末頃に中国から導入された南宋画(南画)と呼ばれた水墨画が、日本でも次第に広まり、やがて日本画の一派として普及、定着していった。当時日本国内には多くの中国、古典、漢字、朱子学愛好者が居り、南画が受け入れられる素地は充分にあったのである。

そして幕末から明治初期にかけては隆盛を極め、京都、大阪には著名な南画家が数多く活躍していた。

南画は中国では詩、書、画が一体となったもの、つまりそれなりの学識教養が要ったことから知的な絵画と見なされ、これらの画人は詩人、反権威主義者などが多かったことから文人画とも呼ばれていた。日本でも同様、文人画と呼ばれる所以である。

江戸時代中期、日本においてもっとも高名で文人画家としてふさわしい画家の一人に田能村竹田(1777~1835)が挙げられている。彼は今日の大分県竹田市生まれ。岡藩の医者の家柄で彼も藩医になる筈のところ、病弱であったので学問の道に進み、37才まで藩に任用された。一方で幼少から絵が好きで習っていたので職を辞したのを機に画家として自立すべく大阪、京都へ出てかねてからの多くの知人と交流を増し、中国宋、元、明の絵画学習を極めた。

竹田は風流多技、特に詩、書、画にすぐれた学識豊かな南画家として傑出した存在であった。今日でもその高評価は変わらない。

田能村直入(1814(文化11年)~1907)は大分県竹田市の生まれ、幼名松太、9才で田能村竹田に入門、偉大な師を見習って大いに励んでその才能を認められ、田能村姓を継いで養子になった。直入の研究熱心さは師竹田に劣らず、特に中国古典名画の研究、模写には年月を費やし、なにごとでも徹底的に追求していく性格であった。

漢詩、書に長じ、南画家としてもその学者風の深い学識とその画才は広く認められ、当時の南画界の大御所であり、その絵は高価であった。22才のとき養父竹田と死別後、26才で故郷竹田を離れ、大阪に来て堺に定住。この頃の事はよく知られていない。

明治元(1868)年京都に定住。京都画壇の重鎮であった。京都府画学校設立に尽力し、明治13年開校にあたっては初代校長となる。今の京都芸大の前身である。富岡鉄斎とは長く交流を重ね、明治29年協力して日本南画協会を設立した。若王子自宅(画神堂)に南宗画学校を開設し、多くの弟子を抱えて後身への絵の伝承教育に熱心にあたった。

当時若王子といえば直入のことを指し、現在の哲学の道一帯は京洛東に於ける一種の文化サロン(ゾーン)の場で橋本関雪をはじめ多くの画家が在住していた。直入は明治40(1907)年94才の天寿を完うした。直入のひ孫にあたる田能村直外は、知る限り京都の最後の南画家の一人として直入の画法を守り継いで生涯その孤高の座を貫いた。京都では伝統ある年恒例の文人画展には理事として大いに貢献した。

戦後の日本画の鑑賞様式は従来の床の間より会場的になった。つまり日本の生活様式が洋風化したからである。そこで考えられることは日本文化の原点は「坐る」ということにある。現在我々の生活のなかで坐ることが殆どなくなってしまった。

つまり坐して瞑想して心の平安を求め、時に目を開けて観想し、床の間の掛け軸に見入る。その絵の中には確固たる宇宙が存在している。南画山水であれば中央の主山に圧倒される。こういった精神風土は「坐る」ことに由来している。美術品鑑賞すべて同様である。この精神風土、京都は我々の先達の偉大な美意識を取り戻せる場でありたいものである。

 

【齋藤煌華氏の画】

 宋の田園詩人、陶淵明は晩年世俗を離れ、清貧に甘んじた隠遁生活の中でも自分の節を曲げることなく、そして一方では人生の有限を思い、楽しめる時にこそその楽しみを享受すべきであると主張した。

 とくに親友が酒を携えてやって来ると、無類の酒好きな淵明は欣然として迎え入れ早速松の下に坐して盃を重ね陶然として談論風発を楽しむと言った風であった。つまり人間としての本来の自己を取り戻せるのは酔の状態においてであるとの思いがあった(齋藤煌華氏の解説)

 

                (「哲学の道 いま」編集担当 岡田 清治)

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2014年10月28日 16:47

木下栄造氏(著述業、大学名誉教授)

銀閣寺の近く疏水の(へり)に木下さんの邸宅はあります。築百年近くの木造家屋は閑静なたたずまいに溶け込んでいました。部屋には日本画家であった父君の画家仲間の上村松園ら花の寄せ絵の掛け軸が床の間に掛けられ、初秋の和らいだ陽が差し込み簡素な雰囲気に華やかさを添えていました。

木下さんは「性科学、セクソロジー、ジェンダー」の分野の研究者で、ドーンセンター情報ライブラリー(大阪)に長年の研究成果(データベース)が収められています。お伺いした日には、ジャナーリスト、コラムニストとして活躍されている奥さまの明美さんも同席してお話を聞かせていただきました。

「京都は鴨川の西(町衆)と東(農民)でまったく文化が違いました。明治3年に京都帝大を開校した当時、西の地区には土地がなく、そのころ在所(田舎)であった愛宕(おだぎ)(ぐん)(聖護院、百万遍、北白川)あたりの広大な農地を政府が買い上げたのです。長く都だったこともあり、農家の方々の学問に対する理解もありました」と言う。

帝大の開設以後、多くの学者や学生が移り住み、疏水の縁には橋本閑雪ら画家が居を構えたのです。父君も伏見から出て京都で日本画を学び、この地に移ったのです。

木下さんは「小説家になりたかったが、それでは生活ができないと学究の道に入りました」が、どうしても書き遺したいという思いから1996年に『京都疏水べりものがたり―本当の哲学の道』という書名の書籍を著わしたのです。その中で「ドイツのハイデルベルクにある大学の近くをネッカー川が流れていて、その向こう岸に“哲学者の道”というのがあって、学者や学生がよく散歩するらしい。そこが疏水縁に似ているが、“哲学者の道”はネッカー川から少し離れているので、法然院の前の山野辺の道の方が哲学の道にふさわしい」(学徒出陣の京大生)と(しる)されています。一般には哲学者の西田幾多郎が『善の研究』の思索などで疏水縁の小径を歩いたところから「哲学の道」として呼ばれマスコミなどが広げました。「西田幾多郎は『善の研究』を仕上げた後に京都に移り住んでいます」と、木下さんは断固この俗説に異を唱えておられます。疏水縁の東側(上の)小径を「哲学の道」という識者は少なくありません。

「哲学の道 いま」についてお伺いしますと「われわれの世代はかろうじて原型を保持しています。道を舗装しようとしましたが、私の家の前でストップしてもらいました」と、住民も高齢化して後継ぎの人がおらない家も出てきているようです。離れて住んでいる3人の子供たちから「家はそのまま残しておいてほしい」との意向を聞いて木下夫婦は安堵しておられました。

「かつて桜の花見の提灯を哲学の道沿いにつけた時、住民は一斉に反対の声を上げ一日限りで取り外されましたが、いつ商売の波が押し寄せてくるかもわかりません」と、いつまでも「哲学の道」にふさわしい小路であってほしいと願っておられます。(2014年9月22日)

退官したいま堂露小路 梅隆のペンネームで短編小説を書いて、ホームページに発表されています。

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2014年10月22日 09:38

法然院

法然院の梶田(かじた)(しん)(しょう)貫主(58)を9月5日午前11時に訪ねました。この日は秋風を感じるすがすがしい日和で、平日のこの時間には観光客の姿も見ませんでした。

法然院は宗派の組織に属さない単立の宗教法人で、檀信徒によって維持されている仏教寺院です。このあたりは鹿ケ谷(ししがたに)という地名ですが、鎌倉時代のはじめ法然が念仏読経を唱えた旧跡で、今も専修念仏の修行道場としてその精神は325年余りにわたり受け継がれています。

境内の墓所には学者や文人墨客のお墓が多いのです。マルクス経済学者の河上肇、哲学者の九鬼周造、東洋史学者の内藤湖南、作家の谷崎潤一郎、歌人の川田順、画家の福田平八郎らが眠っています。

日常は檀信徒のために法事を執り行っているため、本堂・伽藍内は非公開ですが、年2回(4月1日~7日、11月1日~7日)特別公開が行われます。墓地や本堂前の庭園は自由に参詣できるよう開放されています。また演奏会、寄席、音楽劇、文化塾など様々な活動に格安の料金で会場を提供しています。

「ここで2、3時間過ごされることで、お寺に親しみを覚えてもらえます」と、梶田貫主は話されています。週末に参詣される人々は貫主が法話されることを掲示(インターネットでも)で知ることができます。

境内は閑寂な環境を保持し、多くの野鳥のほか、ホタル、ムササビ、イノシシ、キツネ、タヌキ、リス、テンなども生息して豊かないのちの営みを続けています。坂を下った正面の「(とも)()き堂 法然院森センター」には周辺の環境を紹介するギャラリーがあり、ここを拠点に環境学習活動も行われています。

高度経済成長の時代、核家族化が進み「そこに居れば自分の祖先とつながる“私のふるさと”というり所をなくしました。現代人はお寺に癒しを求めてやってきますので、お寺が新たな拠り所を提示できるか問われる時代です」と語っておられます。

そのためにいつ来ても“ただいま”といえるように寺院を守っていきたいと話され、その延長線上に位置する「哲学の道 いま」もそうした空間であってほしいと願っておられます。

「大晦日の夜、薄明かりの哲学の道を歩けば方々からお寺の鐘音が聞こえてきます」と、そこにはかつての哲学の道が蘇ると。

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