木下栄造氏(著述業、大学名誉教授)

2014年10月28日 16:47

銀閣寺の近く疏水の(へり)に木下さんの邸宅はあります。築百年近くの木造家屋は閑静なたたずまいに溶け込んでいました。部屋には日本画家であった父君の画家仲間の上村松園ら花の寄せ絵の掛け軸が床の間に掛けられ、初秋の和らいだ陽が差し込み簡素な雰囲気に華やかさを添えていました。

木下さんは「性科学、セクソロジー、ジェンダー」の分野の研究者で、ドーンセンター情報ライブラリー(大阪)に長年の研究成果(データベース)が収められています。お伺いした日には、ジャナーリスト、コラムニストとして活躍されている奥さまの明美さんも同席してお話を聞かせていただきました。

「京都は鴨川の西(町衆)と東(農民)でまったく文化が違いました。明治3年に京都帝大を開校した当時、西の地区には土地がなく、そのころ在所(田舎)であった愛宕(おだぎ)(ぐん)(聖護院、百万遍、北白川)あたりの広大な農地を政府が買い上げたのです。長く都だったこともあり、農家の方々の学問に対する理解もありました」と言う。

帝大の開設以後、多くの学者や学生が移り住み、疏水の縁には橋本閑雪ら画家が居を構えたのです。父君も伏見から出て京都で日本画を学び、この地に移ったのです。

木下さんは「小説家になりたかったが、それでは生活ができないと学究の道に入りました」が、どうしても書き遺したいという思いから1996年に『京都疏水べりものがたり―本当の哲学の道』という書名の書籍を著わしたのです。その中で「ドイツのハイデルベルクにある大学の近くをネッカー川が流れていて、その向こう岸に“哲学者の道”というのがあって、学者や学生がよく散歩するらしい。そこが疏水縁に似ているが、“哲学者の道”はネッカー川から少し離れているので、法然院の前の山野辺の道の方が哲学の道にふさわしい」(学徒出陣の京大生)と(しる)されています。一般には哲学者の西田幾多郎が『善の研究』の思索などで疏水縁の小径を歩いたところから「哲学の道」として呼ばれマスコミなどが広げました。「西田幾多郎は『善の研究』を仕上げた後に京都に移り住んでいます」と、木下さんは断固この俗説に異を唱えておられます。疏水縁の東側(上の)小径を「哲学の道」という識者は少なくありません。

「哲学の道 いま」についてお伺いしますと「われわれの世代はかろうじて原型を保持しています。道を舗装しようとしましたが、私の家の前でストップしてもらいました」と、住民も高齢化して後継ぎの人がおらない家も出てきているようです。離れて住んでいる3人の子供たちから「家はそのまま残しておいてほしい」との意向を聞いて木下夫婦は安堵しておられました。

「かつて桜の花見の提灯を哲学の道沿いにつけた時、住民は一斉に反対の声を上げ一日限りで取り外されましたが、いつ商売の波が押し寄せてくるかもわかりません」と、いつまでも「哲学の道」にふさわしい小路であってほしいと願っておられます。(2014年9月22日)

退官したいま堂露小路 梅隆のペンネームで短編小説を書いて、ホームページに発表されています。

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